時代と共に生きた半世紀の歩み
自身が赤裸々に語る自叙伝!
15歳、北海道から役者を目指して上京。牧伸二やビートたけしなど時代の寵児とともに「南英司」(芸名)の名前で数々のテレビ番組に出演し、芸能生活25年というキャリアがあるが芸能人としてその存在を誰も知らないという不思議。
後に音楽スタジオ運営やラジオ番組プロデューサーを経て、インターネットサービス歌詞検索サイト「歌ネット」を業界最大手に育て上げ、さらには、世界初のプロンプターを開発した。というわりにはIT業界でもその名はほとんど知られていない事実。
であれば、「自分で書くしかない!」と、15歳から66歳までの「半世紀」(反省記)を、記憶をたどりながら、ただひたすら好きな道を生きた様を書き綴ったのが、今回、調子に乗って出版してしまった「特別な才能なんてない僕が、お金に困らない人生を送っている理由」〜「好道力」がすべて〜という本なのだー。こんなもの、誰が読むんだという声も聞こえそうですが…。
呆けないうちに、自分の忘備録として記録しておきます。
自身が赤裸々に語る自叙伝!
15歳、北海道から役者を目指して上京。牧伸二やビートたけしなど時代の寵児とともに「南英司」(芸名)の名前で数々のテレビ番組に出演し、芸能生活25年というキャリアがあるが芸能人としてその存在を誰も知らないという不思議。
後に音楽スタジオ運営やラジオ番組プロデューサーを経て、インターネットサービス歌詞検索サイト「歌ネット」を業界最大手に育て上げ、さらには、世界初のプロンプターを開発した。というわりにはIT業界でもその名はほとんど知られていない事実。
であれば、「自分で書くしかない!」と、15歳から66歳までの「半世紀」(反省記)を、記憶をたどりながら、ただひたすら好きな道を生きた様を書き綴ったのが、今回、調子に乗って出版してしまった「特別な才能なんてない僕が、お金に困らない人生を送っている理由」〜「好道力」がすべて〜という本なのだー。こんなもの、誰が読むんだという声も聞こえそうですが…。
呆けないうちに、自分の忘備録として記録しておきます。
10代ヒストリー(1966〜1970)
上京半年後には「美空ひばり」と共演を果たす
役者を目指し15歳で単身北海道から上京。演劇学校に通いながら、東宝現代劇で「美空ひばり」と名古屋御園座で同じ舞台を踏む。16歳で浅草松竹演芸場に出演。「ファンキーキャッツ」でお笑いの世界にデビューし、日本テレビ「笑点」やコント55号司会のフジTVお昼のゴールデンショー等に出演する。お笑いブームが去り、バンドの世界に足を踏み入れ、歌謡コーラスバンドを結成。
20代ヒストリー(1971〜1980)
音楽と笑いで駆け抜けた20代
クラブやパブの専属バンドとして青春の日々を送るが、無理がたたり結核で入院。退院後は、お笑い事務所からコミックバンド「ブラックジャック」結成のオファーがきて佐藤事務所に所属し活動を始める。大手事務所ということもあり、寄席番組などのテレビ出演の機会も増えた。さらに、キャバレー廻りや会社の慰安会、有名歌手の前座など、全国津々浦々、高度成長の日本で忙しい日々を送る。
30代ヒストリー(1981〜1990)
ビートたけしのオファーを受けて同じステージに‥。
30歳を期に「ジャイアント吉田とブラックジャック」を脱退。青山三丁目バンドを結成して「お笑いスター誕生」に出演。後にビートたけしと足立区バンドを結成(31歳)。1985年ビートたけしと「シークレットポリス」でコンサート活動を開始。以後、7年間ビートたけしの音楽活動をサポート。同時に35歳で音楽スタジオ「ページワン」を作り、CMやPVの音楽制作の仕事を始める。
40代ヒストリー(1991〜2000)
MIDIスタジオと会社を設立。CM音楽を作り続けた40代
42歳で有限会社ページワンを設立し、レーザーカラオケからMIDIカラオケへ移行する中、カラオケデーター制作を受注しミニバブルを経験。44歳プロンプター開発に着手しNHKでのプロンプターサービスを始める。新しいスタジオ「ページワン」を渋谷区笹塚に移転。45歳で茨城放送の番組プロデューサーになり月〜金の深夜枠「ドリームファクトリー」を約7年間制作し続ける。
50代ヒストリー(2001〜2010)
「歌ネット」を立ち上げ、音楽業界の話題に
2001年歌詞検索サービス「歌ネット」をスタートさせ、話題のウェブサービスに。携帯電話ブームの中「歌ネット」に資源を集中させるため、これまで25年間続いたスタジオ「ページワン」を手放し音楽制作業務から撤退。新しい歌詞コンテンツを次々に開発し、歌詞検索サービスを不動の地位へ引き上げることに成功。また、同時期にコンシューマー用のスピーチプロンプターを開発・発売。
60代ヒストリー(2011〜2017)
世界初のiPadデュアルプロンプターを開発・販売
2012年、世界初のiPad専用プロンプター「プロンプターデュオ」カメラ&スピーチの両方に使える画期的なプロンプターを考案し発売。テレビを始め「日経MJ」など多くの媒体に紹介され話題になる。スマホ版「歌ネットモバイル」が順調にアクセス数を伸ばし業界最大手のメデイアへと成長。2017年4月株式会社ページワンを上場企業の「三谷商事株式会社」へ売却し代表取締役を退任。
主な芸能活動
写真:1968年(17歳)お笑いバンド「ファンキーキャッツ」浅草松竹演芸場にて。
当時はお笑いブームで、その主役は「コント55号」であった。同時期に演劇学校の仲間と「GTフォー」という名前で活動していたが、「ファンキーキャッツ」に改名。名付けの親は「クレイジーキャッツ」のリーダーハナ肇さん。その甲斐あってか、寄席番組や「お昼のゴールデンショー」(フジテレビ)など、テレビ番組出演も増えていった。
写真:1975年(24歳)コミックバンド「ブラックジャック」を結成。「大正テレビ寄席」(現テレビ朝日)公開放送。
所属事務所には、東京ぼん太や牧伸二、ドンキーカルテット、泉ピン子など売れっ子芸人が所属しており、当時のお笑い関係のプロダクションではかなりの「力」があった。そのおかげで数々の寄席番組に出演し、牧伸二司会の人気番組「大正テレビ寄席」(NTT→現テレ朝)では、レギュラー出演していた。
写真:1981年(30歳)青山三丁目バンドを結成。日本テレビ「お笑いスター誕生」収録風景。
コミックバンド「ブラックジャック」を脱退し「青山三丁目バンド」を結成。新しいタイプのコミックバンドを追求。ライブハウスを中心に活動していたが、所属事務所の意向もあり「お笑いスター誕生」に出演することになったのだが、事務所と求める笑いの方向性が違い悩んでいた。後にビートたけしのオファーを受け「足立区バンド」の結成に至る。
写真:1983年(32歳)「だいじょうぶマイ音頭」発売。レコーディング風景。
時はバブル真っ最中、ワンレンボディコンお姉ちゃん、数々の武勇伝。「青山三丁目バンド」→「ビートたけしと足立区バンド」→「シークレットポリス」。ザ・芸能人だった頃、いろんな事件ありました。人生のターニングポイントでしょうか?天才と同じ時を過ごした7年間、物事の価値観が変わりました…。
写真:1988年(37歳)「SMP」を結成ライブ活動。フジテレビ「冗談画報」収録風景。
プロモーションビデオやCMの音楽制作を中心に仕事をしていたが、「SMP」というグループを結成し、ライフワークでライブ活動を始めた。活動早々フジテレビの「冗談画報」に出演し、放送を見たプロダクションやレコード会社から所属契約のオファーが数社舞い込むなど、一部では話題のグループだった。
恥ずかしフォト
芸能活動での宣材写真一挙公開!
16歳で芸能界にデビュー。お笑いバンド「GTフォー」、「ファンキーキャッツ」に始まり、新宿、渋谷などのクラブやパブで活動した歌謡コーラスバンド「西条直樹とプリティナイツ」「佐々木章二とザ・ジェノバ」。24歳でお笑いに逆戻りしコミックバンド「ブラックジャック」を結成。後に「ジャイアント吉田とブラックジャック」に改名。30歳で脱退し「青山三丁目バンド」を結成。そして「ビートたけしと足立区バンド」、「シークレットポリス」。芸能活動最後になった「SMP」(サンプリング・ミュージック・パフォーマンス)など、当時の宣材を一挙公開しちゃいます。
マル秘エピソード
書籍では語られなかったここだけの話
京都・都ホテル軟禁事件
池袋のホストクラブで弾き語りをやっていた時に、お店の店長から「南(芸名)ちゃん、来月は雄琴にあるホストクラブでやってくれないかなー?」という相談を受けた。 交通費と宿泊のホテル代が付いてギャラは20万円出すという。当時としては破格の好条件だった。
そこは、田んぼの真ん中に突如現れたネオン街、歓楽街ともいえる異様な風景が広がっていた。
京都・都ホテル軟禁事件
池袋のホストクラブで弾き語りをやっていた時に、お店の店長から「南(芸名)ちゃん、来月は雄琴にあるホストクラブでやってくれないかなー?」という相談を受けた。 交通費と宿泊のホテル代が付いてギャラは20万円出すという。当時としては破格の好条件だった。
そこは、田んぼの真ん中に突如現れたネオン街、歓楽街ともいえる異様な風景が広がっていた。
プロフィール
著者プロフィール
藤川 英二(ふじかわ えいじ)
1951年北海道北広島市生まれ。10代で役者を目指して上京。演劇仲間とお笑いバンド「ファンキーキャッツ」を結成し、芸名:南英二の名前で活動を開始する。後にコミックバンド「ブラックジャック」に加入し、「笑点」を始め牧伸二の「大正テレビ寄席」など数々のお笑いテレビ番組に出演する。その後、ビートたけしのオファーを受けて「ビートたけし&足立区バンド」を結成。テレビ番組「オレたちひょうきん族」などに出演。以後7年間にわたりビートたけしの音楽活動をサポート。平行して「フェラ−リ、アルファ−ロメオ、アウディ」等のTVCMやVPの音楽制作を多数手がける。1993年「株式会社ページワン」を設立し、プロンプターソフトを開発。プロンプターのリーディングカンパニーとなる。2001年には歌詞検索サービス「歌ネット」を立ち上げ、1日平均170万曲(年間6億曲以上)の歌詞が閲覧される日本最大級の歌詞サイトに育て上げる。2017年「歌ネット」、「株式会社ページワン」を譲渡し、2018年秋、札幌に移住する。著書に行動発想学『頓珍巻』(講談社)がある。